平 頼盛(たいら の よりもり)は、平安時代末期の武将。公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。
長承2年(1133年)に生まれる。母の藤原宗子は待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから美福門院ともつながりがあった。その幅広い人脈により「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(夫の忠盛をも支えるほどの者)」(『愚管抄』)と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。
清盛は忠盛の長子だったが生母はすでに死去していたため、宗子の産んだ次男・家盛が母の後押しで嫡子となる可能性もあった。久安3年(1147年)に清盛が祇園闘乱事件を引き起こして処罰されたことにより、家盛の存在感は急速に高まった。同年12月に常陸介となり、翌久安4年(1148年)正月には従四位下・右馬頭となって清盛に迫る勢いを示すが、久安5年(1149年)病死してしまう。
忠盛の落胆は大きかったが、清盛は対抗馬が消えたことで後継者の地位を確実なものとした。頼盛は家盛の同母弟といっても清盛とは15歳の年齢差があり、清盛を押しのけることは無理だった。それでも頼盛は正室のただ一人の子として優遇されていて、家盛の地位を継承して17歳で常陸介に任じられている。この時点では異母兄の経盛・教盛は受領ではなく、頼盛は一門の中で清盛に次ぐ位置にいた。
保元の乱 [編集]
久安6年(1150年)宗子は崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母となり、忠盛は乳父(めのと)になった。重仁は次期皇位の最有力候補であり即位が実現すれば、忠盛は大きな権力を手にできるはずだった。しかし仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前に病死した。
久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御した。後継天皇は信西の画策により、第一候補だった重仁親王ではなく雅仁親王(後白河天皇)が指名され、政情は大きく変化する。保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛・宗子が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。宗子は「コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」と崇徳方の敗北を予測して、頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と協力することを命じた(『愚管抄』)。この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。
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保元の乱の後、頼盛は兄・教盛とともに昇殿を果たす。清盛が乱の功績により播磨守になったことで、頼盛は清盛の知行国・安芸国の受領となった。頼盛自身の知行国・常陸国の受領には代わりに兄・経盛が任じられる。教盛は淡路守であり、平氏は兄弟で4つの知行国を確保した。
保元2年(1157年)になると信西は大内裏の再建を行い、頼盛は貞観殿の造営を担当したことで従四位下に叙せられる。翌保元3年(1158年)8月には二回目の常陸介となり、10月には藤原顕長と知行国を交換して三河守となった。この年には清盛の長子・重盛も遠江守となっている。頼盛と重盛は叔父と甥だったが5歳の年齢差で、ほぼ同年代といってよかった。平氏は清盛が棟梁として全体を取りまとめ、頼盛・重盛が屋台骨を支える形となった。
平治の乱 [編集]
それを如実に示したのが、平治元年(1159年)に起こった平治の乱だった。頼盛は27歳、重盛は22歳であり、「平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛・三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ」(『愚管抄』)とあるように、平氏軍の主力を率いて戦場に臨んだ。『平治物語』では重盛の活躍が華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦で大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
乱は平氏の勝利に終わり、頼盛は尾張守となった。翌永暦元年(1160年)2月、頼盛の郎等・平宗清が逃亡中の源頼朝を捕らえた。尾張国は京都と東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守に任じられたのは、東国に逃れる源氏の残党を追捕するための措置だったとも考えられる。『平治物語』では、頼朝が家盛に生き写しだったことから宗子が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される[1]。
重盛との格差 [編集]
平治の乱の後、清盛は平氏一門で初めての公卿となる。平氏の勢力は他より抜きん出たものとなったが、乱で共に活躍した頼盛と重盛は、官位において大きく明暗を分けることになる。永暦元年(1160年)に重盛が従四位上・内蔵頭となったのに対して、頼盛の官位はそのまま据え置かれた。応保元年(1161年)に頼盛は正四位下となり位階では上回るが、重盛も応保2年(1162年)に正四位下、長寛元年(1163年)には従三位、長寛2年(1164年)には正三位と瞬く間に引き離し、永万元年(1165年)には28歳で早くも参議となった。
頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、一門における地位の低下は明らかであった。頼盛が甥の急速な昇進をどのように見ていたかは知る由もないが、長寛2年(1164年)、清盛が装飾経33巻(『平家納経』)を厳島神社に奉納した際は、重盛・経盛・教盛らとともに書写に携わった。『平家納経』の中の「提婆品」は頼盛の直筆とされる。